
こんにちは!今回は有島地区の歴史とコースの見どころを紹介します。
【文学と歴史の散歩道フットパス】
ニセコ町民センター〜JRニセコ駅〜親子の坂〜有島記念館〜道の駅ニセコビュープラザ〜ニセコ町民センター 約7km
「文学と歴史の散歩道」は2007年に設定されたニセコフットパスで最もポピュラーなコースであり今までたくさんの方々に歩いていただいた道でもあります。ニセコ町では「相互扶助」の精神を大切にしており、北海道文学の父として有名な有島武郎の農場開放の歴史が町の礎になっています。

旧有島農場は現ニセコ駅(1904年に真狩駅として開業のち1906年に狩太駅に改称)から尻別川の左岸に沿って現在の国道5号線付近に広がっていた「有島第一農場」(1900年入場開墾開始)と現ニセコ町豊里地区の「有島第二農場」の2ヶ所を指します。合わせて約400ヘクタールの農場でした。第二農場は農場管理人の吉川銀之丞以下、小作人たちの尽力により農場経営が軌道に乗ってきた1914年、札幌時代晩年に取得した、もともと別の人たちの開墾地でした。
北海道新幹線の札幌延伸に伴うトンネル工事で難航している羊蹄トンネル(有島工区)はまさにこの地下で工事が行われています。2030年の延伸計画が5年以上後ろ倒しになるほど工事が遅れているとのこと。難航の理由は岩石が多く除去に多くの時間を要しているようです。このことからこの地帯は農耕不適地として初期の北海道開拓から除外されていたことが考えられます。
明治30年(1897年)「北海道国有未開地処分法」の施行を契機に、薩摩藩出身の軍人でありのち官僚・実業家の父有島武が国から貸下げを受け明治33年(1900年)から開拓された不在地主農場でした。
「白樺」創刊で有名な有島武郎ですが、札幌農学校(のち東北帝国大学農科大学)の学生・講師・教授として札幌におり(米留学などを挟み)、武郎が31歳のとき結婚した妻安子の病気を機に東京に戻るまで、ここ北海道の地で活動していました。妻安子の病死と父武の死後、作家としての才能が開花したことで、「生まれ出る悩み」などの作品と農場を舞台とする「カインの末裔」「親子」などの作品が世に出されています。父の農場経営からのちに農場主となり、1922年小作人全員の共有として「相互扶助」の理念のもと、無償開放されました。現在も農地が広がる非常に景観の良い場所であります。有島武郎の生涯の一端を垣間見えるのがここニセコ町有島地区です。
この有島地区には歴史的史跡や当時の様子を知ることができる遺構が多く残っており、フットパスコースにもそれを確認することができます。JRニセコ駅を起点に旧農場の痕跡と羊蹄・ニセコ連邦の景色を堪能できます。10月にハロウィンカボチャに彩られ見応えあり!

文学と歴史の散歩道はまさに旧有島農場の面影を感じながら旧狩太村が誇った壮大な景色を堪能できる町内随一のコースといえます。尻別川と羊蹄山の景色を横目に、河川敷を歩いたり、有島武郎が吉川銀之丞らと歩いた有島農場事務所への道すがらに見えたであろう函館本線があったり、稲作が始められたであろう水田遺構があったり、百数十年前に想いを馳せることができる道です。




小説「親子」の坂は、小山というよりは小高い丘を上る傾斜のある坂で、苔の道となり、春にはこの苔の道とスミレやエンレイソウ、ニリンソウなどが綺麗に映えます。
ちなみに「親子」は有島武郎が亡くなる1ヶ月前に発表されました。有島農場を舞台に思想の違いからくる父と子の葛藤を描いた作品です。この坂は「農場の事務所に達するには、およそ1丁ほどの嶮しい赤土の山を登らなければならない」と作中にも登場します。(1丁とは当時の長さの単位。約100m)






有島武郎と吉川銀之丞は、小作人の生活向上のため1919年から稲作を始めており、1921年に造成された有島灌漑溝と呼ばれる斜段水路。近くを流れる第二カシュンベツ川は羊蹄山麓が源流で、そこから引いた冷たい水温を温めるために、水路の傾斜を緩くする斜段が設けられています。現在も当時のまま水田利用されています。

コースの中間地点、有島記念館に近づくと、吉川銀之丞顕彰碑と旧農場事務所跡が見えてきます。農場主有島父子のために増設された高座敷棟もこちらにありました。共生農団解散後に高座敷部分が初代有島記念館となりますが、1957年に焼失して、現在は礎石のみが残っています。

吉川銀之丞については、札幌農学校で実地農作業を体得し、開墾期に12人の小作人を引き連れて入植。開墾請負人として開拓の苦労を小作人と共にし、北海道とのやりとりや不在地主との調整などでも能力を発揮しました。この地区にとって最も身近で功績を残した人物として讃えられています。解放後に結成された狩太共生農団信用利用組合の理事長を務め、有島の精神を引き継ぎ、農場経営のあり方を進歩させました。
初代有島記念館焼失後に寄付で再建された二代目有島記念館・有島謝恩会館。現在建物の一部が移設され、有島謝恩会館として地区住民のコミュニティ活動に使用されています。

三代目有島記念館。現在の姿です。水場や芝生公園も整備され、優れた景観と町内唯一の博物館施設として町内外から人が訪れる場所になっています。


今回は前編紹介として文学と歴史の散歩道を辿る有島地区の遺構に関してとなりました。次回はコースの見どころについて紹介したいと思います!